複雑で美しい沖縄で生まれ育ったことの誇り


私が折に触れて読み返す文章があって、いつか紹介したいな。と思っていたので、

長文ですが、一週間ほどかけて書き写しました。

古本屋でみつけた「人づくり風土記 沖縄 」という本に

挟まれていた付録に書いてある文章です。

「二十一世紀を目指す沖縄」 大城立裕

●拒まれ続けてきた本土との一体化  琉球王国の建国は十四世紀ですが、それから今日までに、琉球が日本と同化する機会が四回あったと私は思っています。その第一回は1609年の薩摩侵攻です。これによって琉球は日本の幕藩体制にとり込まれ、本土との交流もさかんになったのですが。薩摩は琉球を植民地として支配したので日本との同化はできませんでした。 第二の機会とその挫折は、明治時代の琉球処分とその後の近代化過程です。琉球国が沖縄県になってから、政府は教育を通じて日本化を強力に推し進めましたが、政治的・経済的には差別し、しかも琉球独自の文化に未開・劣等のレッテルを貼って、それからの脱却を強要しました。私が小学校にあがったのは満州事変の始まった1931年(明治六)でしたから非常に厳しい標準語教育で同化を強いられています。ですから戦前の教育を受けた世代は、沖縄人であることの劣等感から抜け出すために、日本人になろう、なろうと努力しながら、やはり同化に成功しませんんでした。  第三の機会と思われたのが沖縄戦です。沖縄の若者たちが進んであれだけの犠牲をはらったのは、身を捨てて国のために尽くすことで日本人として認めてもらおうという気持ちからでした。もし、その期待が報いられていたら、沖縄の戦後史はかなり変わったものとなり、一挙に同化が進んだかもしれません。しかし、期待は見事に裏切られ、日本は「独立」と引きかえに沖縄をアメリカに預けてしまいました。  本土の皆さんは戦後の沖縄では、誰もが祖国復帰で一丸となっていたと思うようですが、あの裏切りを経験した沖縄人の気持ちはもっと複雑でした。私のみるところでは、1950年(昭和二十五)ごろまでは、早く復帰したいというのは約50パーセント、もう一つ、沖縄独立論です。復帰志向が高まったのは1958,7年ごろからで、米軍による土地取り上げ、人権無視に対する怒りと、独立しても経済的に自立できないのじゃないかという認識が広がったためです。  そして第四回目の機会が、1972年の復帰以後で、これで同化が達成されるかどうかが宿題になり、本土と沖縄との関係は、どのようにあることが望ましいのかが、次第にはっきりしつつあるように思います。 ●復帰はしたものの…数年間のとまどい  復帰後2,3年の間、沖縄では復帰なんかしなければよかったという声がけっこうありました。本土からどっと入ってきたビジネスマンやお役人の徹底した効率主義と上下の秩序意識にはとてもつきあいきれないという気持ちを多くの人が抱きました。たとえば沖縄では、昼の仕事のなかでは組織の序列があっても、日が暮れて一杯やるときはそんなものにはこだわりません。ところがヤマトンチュは、夜の宴会にまで仕事の序列をそのまま持ち込みますから、席を用意する側は、誰をどこへ座らせるかと、これまで経験しなかった苦労をしなければなりません。この種のとまどい、文化摩擦は、復帰後十年ぐらいまで、さまざまな場面で起きています。  こうした本土に対する違和感の裏返しとして、それなら、われわれ沖縄独自の文化を見直そうという気運が、まず文学の世界から芽生えてきました。  その早い試みとしては、私が1959年(昭和三十四)に書いた『亀甲墓』がありますが、復帰一年前に東峰夫が書いた『オキナワの少年』が大きな反響をよびました。それまで文学作品のなかではほとんど出てこなかったウチナーグチ(沖縄方言)をふんだんに使って、ふつうの沖縄人の暮らしとものの考え方を生き生きと描くことに成功したのです。  そして1977年(昭和五十二)になると小説『ジョージが射殺した猪』(又吉栄喜)、『戯曲 人類館』(知念正真)という二つの画期的な作品が生まれました。では、この二つの作品のどこが画期的だったのでしょうか。 ●沖縄らしさへの自信が育った  『ジョージが射殺した猪』には米兵による農婦射殺事件という実際のモデルがあります。米軍私用地で薬莢拾いをしていた農婦を米兵が射殺しましたが、猪とまちがえて射ったのだからと無罪になった事件で、基地反対闘争の高まりの大きなきっかけとなりました。  ところが又吉の小説では、この加害者の米兵が、じつは軍隊内のいじめられっ子で、うつうつとしていたあげくに起こした事件だとされています。沖縄からは一律に加害者とみられている米軍の中にも被害者はいるのだ、加害者が被害者でもあったという発見が、ここにはありました。  一方、『戯曲 人類館』の題材は、1903年(明示三十六)、大阪で開かれた内国勧業博覧会で起きた「人類館事件」です。この博覧会には、中国人・朝鮮人・アイヌと並んで沖縄人が見せ物として展示されました。この沖縄の女性は、王族の末裔という触れこみでしたがじつは遊女だったそうです。ところがこれを知った沖縄の新聞記者がおおいに怒って「われわれは立派な日本人なのに、アイヌや朝鮮人と一緒に見せ物にするとはなにごとか」と筆陣を張ったのがこの事件です。  戯曲は展示される女性と調教する男の二人芝居で、ウチナーグチまじりのギャグが連発されますが、そのなかで浮き彫りにされるのは被害者だ、被害者だと思い込んでいる沖縄人も、状況次第では加害者となり得るのだという発見です。  ほかならぬ沖縄の作家自身のなかから、この二つの作品が生まれたことは、沖縄人が単なる被害者意識から抜け出し、主体的な立場で自分をも、周囲をも、みることができるようになってきた兆候だと、私はたいへん心強く思いました。  そして1980年代に入ると、笑築過激団、照屋林賢のりんけんバンド、喜納昌吉など方言文化を正面に押し立てた大衆的な演劇や音楽が大手を振って現れて人気を集め、その本土公演もそれぞれ成功します。  かつて遅れたもの、恥ずかしいものと思わされていた沖縄独自のものが自信をもって表現され、大衆的に受け入れられる時代が、とうとうやってきたのです。 ●本土の"病気"に有効な助言をしたい  この沖縄の自信はどこから生まれてきたのだろうかと、私はずっと考えてきました。まだ、よくわからないのですが、つぎのようなことはいえるでしょう。  復帰二十年へて、本土との格差がかなり克服され、生活水準も、生活スタイルも、平均的日本人として通用するようになったこと、情報化社会の影響で価値観や感性が本土とさして違わなくなったことが、自信を生んでいるのでしょう。同化が時間の問題だということになった、といえましょう。その点で、私はやはり復帰してよかったと思っています。独立しても、劣等感は克服できなかったでしょう。  一方、本土では近代化の過程で土着的なものがほとんど消滅してしまったために、沖縄にはまだまだ残っている土着的な古きよきものがたいへん評価されるようになりました。かつては、おとしめられていたものが、今はうらやまれるようになったことが、沖縄人に自信をつけている面も大きいと思います。  今日の沖縄をみると、過去に味わってきたさまざまな辛い体験も、決して無駄ではありませんでした。日本をも、アメリカも、相対的・客観的にみることができるようになるためには、アメリカ支配化の二十七年間も、よい勉強の機会でした。  さて、二十一世紀に向けて沖縄の進む道ですが日本の沖縄県として、経済的にも文化的にもさらにレベルアップしていくのはけっこうなことだと思います。ただし、これまで本土の経済発展の影で進行してきたマイナス面には十分に注意しなければなりません。人間性を損ねる効率万能と管理主義、自然環境の破壊などについては、本土の人たちもこのままではいけないなと気づいています。  いま日本を覆っているこうした病気には速効薬はないでしょうが、沖縄が、その遅れてきた者の強みを生かして「もうすこし、ゆっくりやったらどうですか」と助言することはそれなりに有効だと思います。  沖縄が多くの苦難をへながらも、しぶとく沖縄でありつづけてきたことの支えの「こわばりのない生き方」の知恵を本土に返していけないものだろうかと考えているところです。

大城立裕さんが30年前にかかれた二十一世紀の沖縄へのメッセージ。

私は、戦争も復帰前の沖縄も知らない世代です。

でもずっと、本土との違いを考えてきました。

同化して生活は変わらなくなっても、やっぱり沖縄は

いい意味でもわるい意味でも本土とは違う。

私は、沖縄の人には、何だか知らないけど、ナイチャーと間違えられ

沖縄を離れてみるも、東京では暮らせず、沖縄にも馴染めず、ずっと、葛藤していました。

でも、大城さんのメッセージに出会って「おぉ!これだ」と納得した感じがあって。

経済的に自立して生活することで頭がいっぱいになって

忘れてしないがちな弱いものたちや自然や人間的なものを

スタジオクロベリカの作品を通して取り戻すきっかけになったら。

そう思いながら、私は日々、つくっています。

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